聖書の学び YouTube動画 「聖書なおっさん」を見て
この動画を皆さんと共に見ていき、まだ救われていない方は救われ、救われているかどうか不安な方は救いへの理解を深め、さらには周囲の大切な人々に福音 (ふくいん)を届けることができるように。
また聖書預言を学ぶことで、携挙 (けいきょ)や大患難時代 (だいかんなんじだい) 千年王国 などが本当に現実として近づいていることを認識できるように。
主の導きによって、緊急性をもって、多くの人々に福音を伝えることができるように、ともに祈りつつ、学びたいと思います。
YouTubeで「聖書なおっさん」と検索すると見ることができます。一話が6,7分程度の短さです。明るいアニメーションで説明してくれるので理解しやすいです。
世の中には、聖書に関する様々な動画があります。内容的に間違っているものや、聖書の内容をゆがめたもの、あやしい宗教が作成したものなどさまざまあります。この動画は聖書的に見ても大きく外れているところはないと思います。
聖書は人類の始まり、そして将来の終末 に関することも書かれています。まだご存じでない方は、是非聖書の内容を知っていただき、ご自分でも納得するまで聖書の内容を調べてください。
「聖書なおっさん」の動画を見て学ぶ聖書の学びの会を教会内で開始しました。
聖書の学び 「聖書なおっさん」
https://sekaiitiseisyo.hatenablog.com/
この文字起こししたサイトです。
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第1話 イントロダクション
聖書はおとぎ話? 現実的かつ実用的 聖書はマジで神の言葉
成就していない聖書預言は解釈が違う部分がある。それについても紹介している。
なぜ聖書なのか? 神はいるのか? いないのか?
この大昔の本(聖書)がどう自分に関係するのか?
そもそも聖書は真実なのか? 嘘なのか? 聖書はなんと語っているのか?
◎おすすめ話 1から5話 36から39話 41から46話
1話が7分程度ですので見やすいです。 お暇なときに見ていただければ幸いです。 一般的な聖書の話から聖書の詳しい預言についても説明があります。 こんな話が聖書に書いてあるんだな~という感じで見てください。
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第2話 聖書って何?
約40人の著者によって、約1500年間かかって書かかれた。
イエス・キリストが来るまでに書かれた 旧約聖書 39巻 イエス・キリスト誕生後に書かれた 新約聖書 27巻
全66巻
メインテーマ 人類救済
聖書は生きていて力がある。
へブル人への手紙4章12節
神のことばは生きていて、力があり、両刃の剣よりも鋭く、たましいと霊、関節と骨髄を分けるまでに刺し貫き、心の思いやはかりごとを見分けることができます。
このことばは、神のことばで、今も現実に生きていて、名前をイエス・キリストというのです。
イエスという名前の意味は 救済です。 主は救い
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第3話 主役はイエス・キリスト
イエス・キリストとはだれなのか?
旧約聖書の中で預言され、待望された救世主
預言通りに誕生し、十字架で死ぬことによって、人類救済を完成させた人物
イエス・キリストが主役
イザヤ書9章6節
永遠に続く神の王国の主権がある。
ヨハネの福音書1章14節
神の言葉が肉体を取って、人となった神
なぜイエスが救世主だとわかるのか?
救世主の条件
1, ベツレヘムで生まれる ミカ書5章2節
2, ダビデ王の子孫として生まれる 詩編132篇11節 イエスが生まれる約1000年前
3, 処女から生まれる イザヤ書7章14節 イエスが生まれる約700年前
見るべき姿なく傷つけられた イザヤ書53章2~5節
わたしの手と足を刺し貫いた。 詩篇22節16節
とがある者と共に数えられた。 イザヤ書53章12節
すべての者の不義を彼の上に置かれた。 イザヤ書53章6節
イエスは死から復活した。 詩篇16篇10節
なぜイエス・キリストが死ぬと人類救済になるのでしょう?
イエスは、モーセが神の啓示を受けて書いたトーラーと言われる書物であるレビ記に書いてある、神に仕えるために書いてあるルールに従ったからです。
それは罪のない状態で血を流し、いけにえとしての条件を完全に満たして、人類救済を完成させたのです。
全きものをささげなければならない。 レビ記1章3節
血は命であるゆえに、あがなうことができるからである。 レビ記17章11節
イエス・キリストは死ぬために100%人間である必要があり、そして多くのいのちの代償となるため、100%神でなければなりませんでした。
イエス・キリストは何から人類を救ったのでしょうか?
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第4話 人類救済って何から救われるの?
イエス・キリストは何から人類を救ったのでしょうか?
罪から救う マタイ1章21節
神の怒りから救う ローマ人への手紙5章9節
永遠の忌から救う ダニエル書12章2節
犯した罪の罰として、神の怒りを受けて、神から引き離され、いわゆる地獄に永遠に閉じ込められるということからの救い。
地獄とはどんなところ?
イエス・キリストが現実に人類救済のために死んだのであれば、同時に地獄の存在も現実となります。
もしも地獄が絵空事なら、イエス・キリストが死ぬ必要などなかったのですから。
地獄の記述は新約聖書に集中しています。それは、イエスによる救いが与えられたにもかかわらず、その救いをあえて拒む者への神による罰が非常に厳しいものであることを、新約の時代に救いと共に明らかにされたのです。
地獄は消えない炎で燃えている。 マタイの福音書13章42節
恐ろしいのは、もう死んでいるので焼け死ねないこと。終わりがない苦しみ。
ルカの福音書16章24節 マタイの福音書25章41節 ヨハネの黙示録20章15節 など
地獄は地球の中心にある マタイの福音書12章40節
地獄は暗い苦しみの場所 マタイの福音書8章12節
地獄は永遠 ダニエル書12章2節
神はすべての人が救われることを望んでおられます。神の子であるイエス・キリストもすべての人の犠牲になってまですべての人を救いたいがために十字架にかかられました。
聖書を信じたクリスチャンも本当に地獄があると信じていますので、周囲の人々が福音を信じずに地獄に行くのが本当につらいので、救われるように祈り、何とか繰り返し福音を伝えています。
明日も 一年後も 一億年後も地獄には終わりがありません。この現実が本当に起ころうとしています。
地獄は神がいない場所 テサロニケ人への手紙第二1章9節
イエス・キリストは語ります。
体を殺すだけで魂を殺すことができない人間よりも、体も魂も地獄に投げ入れて滅ぼす神を恐れよ マタイの福音書10章28節
片目が罪を犯すなら、それをえぐり出して、片目で天国に行く方が良い。 マタイの福音書18章9節
イエス・キリストは、私たちが、神がいない恐ろしい場所から、永遠に閉じ込められることから逃れる唯一の救い。
イエス・キリストの救いを拒絶する人は、全員残らず、現実に地獄に落とされます。
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第5話 神と和解して救いを獲得しよう!
どうすれば救いを得られるのか
人間は全員、罪を犯す罪びとである ローマ人への手紙3章23節
罪のために天国に入ることができない。
つまり人間全員が地獄に閉じ込められる運命にあったのですが、神が自らのひとり子を犠牲にすることによって、人類が地獄から救われる道を作ったのです。
わたし(イエス・キリスト)が道であり、真理であり、いのちなのです。ヨハネの福音書14章6節
人間の良い行いだけでは救われない。
エペソ人への手紙2章8から9節
この恵みのゆえに、あなたがたは信仰によって救われたのです。それはあなたがたから出たことではなく、神の賜物です。
行いによるのではありません。だれも誇ることのないためです。
神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。 ヨハネの福音書3章16節
人間は自力で自分の罪を取り除くことはできません。神の恵みにより、罪のない神であるイエス・キリストご自身が、人間の罪を負って、人間の代わりに十字架で罰を受けたことにより、罪の代償を完済されているのです。
つまり、人間が努力して、神に近づくのではなく、何もできない人間に、神の方から手を差し伸べてくださった。ということがキリスト教の真骨頂。
人類救済。いわゆる贖罪(しょくざい)はイエス・キリストが十字架で完済されたので、我々には何もすることがない、何もすることができない。しかもこれは神からの贈り物。お金などを払う必要も一切ありません。
お金では救いは獲得できない。
しかしながら、これにより全員が救われるわけではない、この贈り物をあなた自身の意思で受け取ることが必要です。他人があなたの代わりに受け取ることはできません。
自分は罪びとなので救いが必要であり、イエス・キリストが私たちの代わりに十字架で死ぬことで、私たちの罪が赦され、葬られた三日後によみがえったという、いわゆるゴスペル、福音(ふくいん)という素晴らしい事実を、心から信じ、自分の言葉でそれを告白することで、その贈り物を受け取ることができる。
ほとんどの人は受け入れない
自分は罪びとではないから、救いを必要としないと考えたり、幸せな人生を獲得したから、神はいなくても大丈夫と考えたり、今の生活が忙しすぎて、神に使う時間がないなどの理由で贈り物(福音)を拒絶するのです。
イエスの救いを信じれば、すべての罪が赦されて、無罪となり、信じなければ有罪判決を受ける。
キリスト教とは、永遠を前にして、自分自身で選ばなくてはならない、決断、選択なのです。
あなたが神を求めれば、神はあなたと共におり、あなたが神を拒絶すれば、神のいない地獄へいってしまう。どちらを選択しても、あなたの希望通りになる。
神の救いを得て、永遠を神の豊かな恵みと義の中で過ごさなくてはなりません。
是非、今日、イエス・キリストを信じて、救いを救いを受けてください。
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第6話 明確に現れる救いの印(聖化)
あなたがイエスの福音を信じて、自分が実際に救われて天国に行くことが確実なのか、そうではないのか、を知る手段があります。それは、信じた人には聖霊(せいれい)という印が与えられ、その聖霊はあなたが確かに救いを受けて、天国に入る保証となると聖書は約束しています。 エペソ人への手紙1章13節
どうしたら聖霊が与えられたとわかるのでしょう、それは、自分の行動や考え方、欲求など、今までの自分があからさまに変化していく形で現れます。それは聖化(せいか)と呼ばれ、現れる速度は人によって違いますが、自分が驚くほど大きく変わりますから、確実にわかります。
あなたが聖霊を受けているかチェックしてみましょう。
イエスの福音を心から信じ、口で告白することで、救いを受けると、その人は聖霊という、神の聖い霊を心に受けます。
人は新しく生まれなければ神の国を見ることはできません。ヨハネの福音書3章3節
と説明したことで、福音を信じて救いを受けた人は、その時点で霊的に死に、聖霊を心に受けて霊的に生まれ変わるという事象が実際に起こるのです。
聖化とは何でしょうか?
旧約聖書では、この言葉は、聖くされて、他のものとは区別されることを指しています。
福音を受けたクリスチャンは全員聖いのでしょうか?
残念ながらそうではありません。
福音を受けて聖霊を受けても、罪の性質を継承するからだがまた罪を犯してしまうので、自分が聖いわけではないのです。ローマ人への手紙7章15節25節
信じた人はイエス・キリストの血によって、イエスの義、つまり、イエスの聖さを洋服のように着て、神の目に聖なるものと見なされるのであって、それは、自分の義ではないのです。
つまり、私たちはイエス・キリストなしでは聖くなれないのです。しかし、私たちが受ける聖霊は、私たちを神の仕事ができる聖いものへと少しづつ変えてくれます。 ピリピ人への手紙2章13節
神の目的のために働くという使命 コリント人への手紙第一10章31節
聖書を無性に読みたくなる 死への恐怖がなくなる 自分のライフスタイルも変化を感じる。
ゲームやお酒、スポーツなども以前のように熱狂することがなくなる。 教会の奉仕に時間を使いたくなる。
お金や名誉など、この世で価値があるとされる地位などが色あせていく。
次第に自分のためでなく、人のために良いことをする欲求も強くなります。
あまり、怒らなくなったり、人の悪口を言わなくなったり、今までの自分の性格も変えられていく
これらの不思議な変化はすべて、信じたときに与えられた聖霊によるのであって、いわゆる聖霊の実を結ぶことにつながっていくわけです。 ガラテヤ人の手紙4章22節
逆に自分がクリスチャンだと思っている人に、これらの変化が現れない場合、その人は、口で福音を信じると言っても、心から信じていないのかもしれません。
ぜひ自分の行いを振り返り、自分をテストしてみてください。そして、信仰によって、確かに救われていることを確認してください。
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第7話 聖書って信用できるの?
聖書が正確に保存・伝達できるのか?
奇跡の内容は信用でいるのか? 聖書の原本は残っていません。 手作業の写本による。伝達の確かさが鍵となる。
旧約聖書は約3500年前から2500年前に書かれた。
ヘブル語 マサラ学者が厳しく管理 AD400年から900年まで活動 マソラ本文と言われる
レニングラード写本AD1008年
20世紀最大の発見 死海写本AD1947年発見 死海写本は紀元元年頃(イエス・キリストが生きていた時代)
死海文書とマソラ文書には1000年間の隔たりがあるが、驚異的なレベルでほぼ正確に保存されていた。
新約聖書 圧倒的な引用数 2,3世紀の神学者たちの学者だけで、新約聖書のほぼ全体が構成
旧約・新約聖書ともに原本の内容をほぼ維持している。
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第8話 イエスは本当に復活したのか?
聖書の奇跡は本当か嘘か? イエス・キリストの復活の奇跡
イエスが死から復活したのなら、それは神の力によるもので、ほかの奇跡も同様に神の力でできる。という理屈。
使徒パウロはもしキリストが復活していないなら、私たちの宣教は実質のないものになる。
イエス・キリストの復活をとことん突き詰めた二人
シカゴトリビューン誌の敏腕 ジャーナリスト リー・ストロベル
カルフォルニアの殺人課 ワーナー・ワラス
二人とも無神論者 聖書に懐疑的だった。 イエスは存在していたのか?
ジャーナリズムの視点
ユダヤ古代史など聖書以外の多くの書物にイエス・キリストの記述
紀元前を記すBCがbefore、CHRIST 架空の人物が紀元の基準になるはずがない
〇イエスは本当に死んでいたのか?
血と水が出た ヨハネの福音書19章34節
肺から水が出るというのは、出血性ショックや窒息状態であったことを示す。心筋梗塞から心停止を演技ではできない。
ピラト総督の命令に百卒長が確認を怠るとは考えにくい。
現代医学の説明に加え、死亡を支持する状況証拠により、イエスが十字架で死んだことも事実と認めざる負えませんでした。
〇イエスは本当に復活したのか?
嘘を成功させる条件 少人数であること 期間が短ければ短いほど成功しやすい
復活したイエスに出会ったのはイエスの弟子のみならず、イエスを迫害していたサウロ、500人以上の人が、復活のイエスを見ている。 この人数は共通の嘘をつくには多すぎる。2000年も続いている。 これにより、嘘の可能性は低いと判断した。 多くの人が同じ幻覚を見ることはあり得ない。
犯罪科学の消去法 結論:復活が起きたとすることが最も理にかなっている。
カルフォルニアの殺人課 ワーナー・ワラスは無神論からクリスチャンに変えられた。
ジャーナリスト リー・ストロベルは、新約聖書学者ゲーリー・ハバーマス博士とのインタビューで、
もしも復活が嘘ならば、嘘のために弟子たちは殉教しただろうか? あなただったらそうしますか? と逆に聞かれ、調査を続けると、復活を支持する証拠や見解ばかりが集まり、期待していた復活はなかったという証拠は集まらず、彼は「無神論を維持するのは神を信じるよりも強い信仰が必要だ」と悟りました。
ストロベルも2年の調査の末にキリスト者の歩みを始めた。
なぜ無神論だった彼らが神を信じるようになったのか? それは彼らが本気で真理を探したからです。
本気で探せば、神を見つけることができると聖書は約束しています。
エレミヤ29章13-14節 マタイの福音書7章7節
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第9話 5つのソラ(宗教改革)
前回本気で神を探したリー・ストロベルやワーナー・ワラスお話をしましたが、今回はさらに究極的に神を求めたマルティン・ルターの宗教改革の話です。 タイトルもソラはラテン語で「~のみ」と言う意味。この5つのソラが宗教改革の中心的な考え方でプロテスタント教会の基礎となっています 。16世紀当時はドイツではギリシャ語で書かれた新約聖書を読むことができませんから、ローマカトリック教会において祭司が聖書を読み聞かせ、解釈を説明していました。つまり人々は自分で聖書を読む自由がなかったのです。 後にルターが聖書をドイツ語に翻訳しました。
カトリックも若き修道士だったマルティン・ルターは救いを得るため、神の前で罪のない状態である「義」となるべくカトリックの教えに従ってさまざまな儀式に参加し、長時間懺悔し、贖宥状を買い、禁欲生活を続けたのですが、義となるどころか、自分の罪深さばかりが浮き彫りとなり、心に平和を得れない状態でいました。悩める彼はギリシャ語を理解したので、聖書を学び続け、ついにローマ人への手紙三章 パウロの信仰によって義とされるという教えに至り、彼は苦しみから解放され始めて心に平安を得ることができたのです。 救いとは律法を守って勝ち取るものではなく、自分を罪人と認めて悔い改め、イエスの福音を信じる者への神からの無料のプレゼントであって、信仰による以外に方法がない ことがわかったんです。律法をどんなに正しく守ろうと努力しても、人間が律法を守り通すことは不可能なのです。義を獲得する方は信仰のみ。私たちは信仰によって、赦しを得ましたが、神は義なる神でもありますから、私たちの罪をナーナーにはしません。 ちゃんとけじめをつける必要があるのです。
神はイエスキリストに私たちの罪を負わせ、十字架でその罰を受けたイエスがわたしたちの罪の代償を完済したのです。 人間は自力で義となることができないので、罪人のままでイエスキリストの義を着せてもらうのです。つまり私たちの罪はイエスの罪となり、イエスの義が私たちの義となる。 ルターはこれを素晴らしい交換と表現しています。 私たちの罪の代償を払えるのはキリストのみ。
聖書の学びを続ける彼は教義が聖書と一致していないカトリック教会を非難しました。買うことで罪が軽減するとされる免罪符 とも呼ばれる贖宥状 はお金で救いを買うことができるとなってしまいます。 神の恵みを得るために必要とされる儀式や修練も同様に、人も行いで救いを得るという、カトリックが作り上げた伝統であり、聖書もこれと対立しますこれらの儀式が必要ならば法王や祭司など人間の介入も必要となります。 人間は誰でも罪を犯すに人間であるローマ法王には聖書を解釈し、教義を変え、 罪の赦しの金額をも設定できる権威が与えられています。 ルターはこれらのカトリックの教義伝統は実践しても救いを得ることができないと身をもって知っていたので、罪を犯す人間ではなく、記述された神の言葉である聖書のみが神を啓示する唯一の権威であるとしました。神のことばは聖書のみ。
人類救済の代償とするため自らのひとり子イエス・キリストを世に送られ、十字架で殺されることさえゆるしたのは人間を愛する神の恵みです。 救いは人間の行いによるのではなく、人間を愛する神の恵みによるのです。
救いは神の恵みによってのみ。これらの4つのソラの一つからでも外れると、神以外の人やものが栄光を受けてしまいます。
例えば良い行いをして救いを受けれるなら、救いはその人の手柄となりますからね。 しかし聖書は救いに関して、人間が義とされて救いを受けるという全ての工程において、神のみが貢献者であり、神のみが栄光の対象者であるると教えるのです。人間が誇れるものは何もないのです。神の山に備えありとは、そのことなのです。
栄光を受けるのは神のみ。 宗教改革って宗教を新しくするというように聞こえますが、実際は人間が勝手に作り上げた伝統から離れ忠実に聖書のみに従うという原点回帰なのですなぁ。
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第10話 神の主権と人間の自由意志
人間には自由意志があると思いますか? それは言い換えると、選択肢から選ぶ自由です。 住む国によっては慈自由を行使するのは困難ですが、それでも自由にものごとを考えることができると多くの人は考えますよね。私たち は神の操り人形ではありません。自由な意思を持っているはずです。しかしキリスト教における神の主権と人間の自由意志というのは、いわゆるカルヴァン主義 対 アルミニュース主義の対立として、議論のトピックになる難しいテーマです。
R、C、スプロールとカルヴァン主義者の解説は基本的に、人間は神を信じるか信じないかを選ぶことはできない。選ぶのは人間ではなく神だと教えるのです。聖書には確かにこの世界が作られる前に神は私たちを選んだとあります。イエス自身も選んだのはあなたではなく私だと言っています。 また神に選ばれたものが全員救われると言っています。全知全能なる神ですから、誰が救われて、誰が救われないかを選ぶことができるのは理解できます。しかし救いの対象となる福音を信じるか信じないかを、人間は選ぶ能力がないという、カルヴァン主義の主張は聖書的といえるでしょうか? 私も含めて、ここで多くの人は、それおかしくないかと思うわけです。 だって救いの条件は信じるか信じないかですから、私たちには選ぶ脳力があり選択肢を持っているはずですよね? 最初から選択肢がないから選ばれていない人たちや伝道は結果的に本人にとって無意味となります。選ばれていない人たちが教会に来ることも、本人にとっては時間の無駄です。
一方で聖書はすべての人に悔い改めを命じていますし、イエス自身もすべての重荷を負った人はわたしのところに来なさいと言っています。 これは明らかにイエスのところに来るか来ないかを人間が選べることが前提となって おり、救われないものにも、来なさいと言っているようで、矛盾に聞こえます。
というわけで長年議論されてきたわけです。チャールズ・スポルジョンは矛盾しているように聞こえるが永遠の中では一致するといい。 または神の考えることは、私たちの理解を超えているので、考えること自体止める方が良いとする意見もあります。 しかし聖書をよく読むと、神に選ばれていないものを信じることができない、とはどこにも書いていないのです。さらに信仰はイエスを通して、または神の言葉を聞くことから与えられるとあり、信仰を得るには神の言葉であるイエスが必要。つまり神は、神が完成させた救いを私たちに直接与えているのではなく、救いを得るための唯一の道を与えてくださったと読むことができます。神から選ばれていないものでも、信仰を持てると解釈できるでしょうか? これはマタイの福音書の22章の結婚式披露宴のたとえ話を連想させます。王様に選ばれて招待された人たちは、披露宴に来ないので、招待されていない人たちで宴会場は一杯になったとあります。 このたとえ話では、選ばれたのに披露宴に来なかったのは、イスラエル、選ばれていないのに披露宴に来たのは異邦人。 異邦人が披露宴に来ることができたのは、本来招待された人たちが来ないので、自分たちが招待されているという知らせを信じたからですよね。そしてローマ人への手紙11章には、最終的に選ばれたすべてのイスラエルは救われるとあります。 聖書には選ばれていないものは救われないとは書いておらず、信じたものが救われ、信じない者が救われないと書いてあるのです。 神に選ばれているかどうかにかかわらず、神は私たちに悔い改めて、福音を信じよと命令しており、その命令に従うのか、それとも拒絶するのか、自分の意思で決断をしているというのは事実です。そしてその決断の責任は私たち自身にあり、救いはその一点に集約されているのです。神は信じる能力のない人間に、信じない責任を負えと言うでしょうか 悔い改める能力の無い人間に悔い改めよと命じるでしょうか? 一人でも多くの人がイエスキリストの福音を信じることができるように働くのは意味があることであると私は信じており、このビデオの制作を今日も続けているのです。
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第11話 創造主の存在は確実!!
台風が来て、街に大きな被害を与えた時、風を目で見ることはできませんが、風がもたらした被害を見ることで、風の存在を確認できます。 人間が感知できるものは実際に存在するもののごくわずかで、電磁波の波形を光として目に見えるのは、たったのこれだけ、でも私たちもは紫外線や x 線などの存在を知っています。神の存在もまったく同じことです。私たちの目では神を見ることができませんが、私たちの周りには神が作った素晴らしい創造物が満ちています。美しい花や木から強く立ち並ぶ木々、空を飛ぶ鳥、あなたの家にいる猫も、あなたがこのビデオを見ている目もすべて神が造りました。
病気やケガを治し注力や赤ん坊が生まれて初めて呼吸をしたときに起きる体の変化 などはその素晴らしさを表現する言葉もないほどです。それとも新たはこれらものは自然の中で 偶然に出来上がったと思いますか 人間は原始的な生き物から進化したのでしょうか? では一緒に考えてみましょう。例えば山をハイキングしていて山道にクリップが落ちていたらはぁあ自然が 作り出したものは素晴らしいなぁとは誰も言わないですよね。ただの針金が3回曲がっているだけのこの クリップ こんなに単純な構造でさえ、誰も資源が作ったものだと思わないし なおくれたっても偶然はクリップを作れませんそれはエントロピーも法則からも理解できますよね。クリップは人間がデザインし制作したもので、自然の中で勝手にできるものではないのです。 ではクリップと比べようがないほど複雑にできている人間が自然界で偶然の重なりあいで存在すると考えるのは果たして現実的でしょうか。 ここで偶然の信憑性をサイコロを使って考えてみましょう。 人間が偶然にできるかという信憑性のヒントになるかもしれません。70個のサイコロ一度に振って全て6が出る確率はどれほどでしょうか。困難かもしれませんが、可能性は確実にあります。 では70個のサイコロ一度に投げるのに3秒かかるとします、70個のサイコロは集めなくちゃないですから、たぶんもっとかかるでしょうけどねぇ。 確率は6個の70乗ですから、だいたい29 に0が53個分の1となります。
最初の1回目ですべて6が出れば3秒で達成できますが、そんなに簡単に出ることは ないでしょうから中間をとって分母を半分にしましょう。そうすると約14に0に 53個分の1となります。それに3秒をかけると44に0が53個秒で14に0 が46個年となります。ちなみに google で地球の年齢を調べると、私はこの数値を信用していませんが45億4300万年とあります。 腹が立った70個のサイコロ全て木6が出るのには地球の年齢と比べ物にならないくらいの長い時間がかかるかもしれません。地中にある鉄は偶然で何かのこの熱で焦げて、偶然に針が目状になって偶然3回平行に綺麗に回るためにはよほどの偶然は必要なのでしょう。複雑な人間の体が偶然で作られるのではどれほどの時間が必要でしょうか?
70個のサイコロがすべて力が出る偶然を少なくとも何千万回と成功しなくてはいけないでしょう 。つまり人間が地球上で偶然にできるには時間が全く足りないので現実的ではないのです。現実的な考え方は、クリップをデザインした人間がいるのと同様に、人間をデザインした知性が存在すると考えるのが自然ではないでしょうか。
次にコンピューターで人間を偶然にできるシュミレーションを作るとしましょう。命の維持に必要な条件を設定して
いろんな偶然によって体の部位が作られるというシミュレーションです。 すると人間の命はどうなると思いますか。 生命の維持条件を満たしつつ、さまざまな形状の人間ができてしまいます。もしも偶然が作り出すと仮定するならこのような様々な形状の人間の出現を避けることができません。
サルからも進化も同様に猿と人間の進化の途中で人間の近くまで来つつも、途中から別な進化をしてしまう生き物が今も無数に存在するはずなのです。 でも実際にはそんな生き物は存在しません。肌の色など、多少の違いはあれど人間の構造は過去も現在も同じなのです これも人間をデザインした存在がいると証明しています。 そして自分は人間を作ったと主張するのは聖書の神の他には誰もいません。神の目に見えない永遠の力と神性は被造物によって知られ、はっきりと認められるので、人間に弁解の余地がないと聖書は語ります。
つまり私たちはいくら否定しても心のどこかでは神の存在を認めているのです。あなたもそうでしょう。 神の存在の証拠に囲まれて生きている私たちは、まさか神が本当にいるとは思わなかった、とは神の前では言えないのです。
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第12話 逆転する価値
子供の頃に自分の夢を聞かれると大金持ちのスポーツ選手になりたいとか人気のある女優になりたいとか、えらい総理大臣になりたいみたいな答えが多くありましたよね。最近は違うのかもしれませんけど。よく教会で教わることですが、罪つまり、多くの犯罪の原因となる人間の欲望は、お金、権力、そしてセックスに関わっています。
皮肉なことですが、多くの子どもたちの夢はこれらの欲望が投影されています。子どもたちだけではありません。大
人だってお金持ちになりたいし、権力が欲しいし、もてる有名人になりたいという欲望がありますよね。 これはとりもなおさず、私たち人間が罪の性質を持っている証拠です。どうして私たちはこれらのものを欲しがるのでしょう。 犯罪まで犯して獲得するほど価値が本当にあるのでしょうか?
では聖書はなんと語っているでしょう。イエスはラクダが針の穴を通る方が金持ちが天国に入るよりも簡単だ。と言い。また一番小さいものは一番偉いとも言っています。私たち人間はお金や名声は価値があるものであると理解し 、獲得するために努力するのは旧約の時代から同じです。しかし、聖書はそれらに同様の価値を認めていないどころか、それらを獲得することが天国に入れる妨げにさえなり得るというのです。私たちが普通だと考えている価値観が全く逆なのです。なぜでしょう。それは富も地位も名声もすべてこの世に限定されているからです。死んだらどれ一つとして、本人に役立つものはありません。つまりこれらが役に立つのは長くても80年程度。しかしイエスの時間軸はこの世ではなく永遠にあります。 永遠の中での80年はほんの一瞬に過ぎません。 フランシス・チャン 牧師の有名なロープの例えですが、このどこまでも永遠に続くロープのたったこの短い赤い部分が人の人生で、この中で人はお金を貯めて楽しい人生を過ごすために一生懸命働くわけですが、この一度しかない短い部分が永遠を決定することを全く考えていないのです 80年ほどしか価値がないものに囚われては永遠を生きることができないのです。 では具体的にどうしてお金持ちが天国に入ることが難しいのでしょう。答えは簡単。お金持ちは神に頼らず、お金に頼るのです。 お金があれば神の助けはいらないと考え、神からどんどん離れていくからなんですな。決してお金を愛してはいけません。人間は神とお金の両方に仕えることはできないのです。では、地位はどうでしょう。地位があって権力を持つ人はどうしても自分を偉いと考えますよね。威張っている本人はとても気分がよいのですが、高慢は破滅をもたらすとあり、聖書いたるところで謙遜になることを命じています。
そもそも、高慢は神が嫌うトップ7の最初に登場する程に、あなたを神から遠ざけてしまうのです。そして名声は常に様々な誘惑が伴いダビデ王のように大失敗をしてしまうので、聖書は性の乱れに関しても厳しく警告しています。このように聖書は人間が全員持つ欲望に正面からNOを突きつけ、その理由も明確にしています。聖書の教えと逆行して私たちの欲望は私たち全員の体にアダムの罪の瞬間から継承しているのです。ですので私たち人間は、罪の奴隷であって、その牢獄から逃れることができません。この欲望に任せると考えることがすべて罪につながりやすいのです。お金持ちになったり、権力を持つことは悪いことではありません。聖書でもアブラハムやダビデ王、ソロモン王も裕福で権力、名声を持っていました。しかし、これらの神に祝福されたイスラエルの王たちでさえ、人間の持つ罪の性質のために罪を犯しているのです。これらの欲望を追い求めてしまうと、同時に神から離れて、罪を犯す危険が大きいと聖書は警告するのです。この世で評価されるもの、自分の欲望が満たされるものに支配される私たちの価値観は、神の御国においては、全く逆転するのです。そしてその逆転の価値観こそは、罪を継承せずに永遠につづく神の御国を支配する価値観なのです。福音を信じ、救いを得て、神の御国の相続権を獲得し、神の御国に視点を移すと、この世で価値があるとされるものは、あっという間にその輝きを失って色あせていくのです。
次のビデオでは神の御国における、さらなる驚きの価値の逆転についての教え、イエスの山上の垂訓に挑戦します。
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第13話 さらに逆転する価値(山上の垂訓)
今回は前回のビデオに続き、聖書が語るさらなる価値の逆転の教え、山上の垂訓についてです。山上の垂訓は最も有名なイエス・キリストの説教といえるもので、その教えは当時から現在まで聴く人を驚かせる内容です。マタイの福音書5章の冒頭、は心貧しい者は幸いである。 天の御国はその人たちのものだから。悲しむものは幸いです。 その人たちは慰められるから。とこの説教は始まるのです。解説本には、この心が貧しいというは、状況の悪化に自分ではどうしようもなくなり、精神的にぐしゃっと潰されて、神を必要とする人たちとあります。 イエスは心が押しつぶされていたり、悲しむ人が幸せだとういうのです。普通は良いことがあって、心がウキウキするような嬉しい状態を幸せと考えますよね。 さらにイエスは、私のために迫害を受ける人は幸せだとし、喜び踊れとまで言っています。人からひどいことをされて喜び踊れって、えーっ、どうしてってなりますよねぇ。 さらにさらに、イエスは自分の敵を愛し、自分を迫害する者のために祈れと教えます。普通に考えたら、攻撃されたらやり返してやりたいですよ。 自分にひどいことをする奴らは祈るどころか呪ってやるって考えるじゃないですか。自分を攻撃する人をどうやって愛したり、祈ってあげることができるのでしょう。まだ終わりませんよ。あなたは良い行いをする時は、人に見られないところでやりなさいと教えています。これも誰も見ていなかったら誰からも評価されたり、ほめてもらえませんよ。
良いことをやる意味ないよって思いますよね。 一体全体この教えは何なのでしょう。私たちの価値感と全く逆なので、何をしようとしているのか理解出来ません。では、イエスは何故このような逆の価値観を教えるのでしょう。 実はここに私たちが普段見落としている真理が隠されているのです。その真理とは、前のビデオにも少し説明しましたが、イエスの視点はこの世ではなく、永遠の神の御国にあることです。 人はこの世での生活がうまくいかず、自分ではどうにもならなくなって、心が潰された状態でようやく神に頼るのです。神に近づき、神の大きな愛を体験し、神を信じたときに、永遠の視点が見えてきて、この教えの意味がわかるのです。 イエスのいう幸せとは、この世の中のほんの一瞬であるこの世の快楽的な幸せではなく、永遠の神の御国での幸せの話をしているのです。悲しんでいる人は、神に悲しみを打ち明けることで、人間の慰めではなく、神による慰めを受け、神の平安が心を満たします。だから幸いなのです。もっと言うなら、この世での幸せなど、ほんの一瞬で儚く、満足してもまた欲しくなるのです。神が永遠に共にいてくださることとは比べ物にならないのです。 自分の力で人生がうまくいっていると思っている人は神を頼りませんから、永遠も見えてこないし、イエスの教えを理解できません。あなたを攻撃する敵にやり返したら、憎しみがもっと大きくなってしまいます。しかし、愛の行いで対応すれば、愛が憎しみを覆うのです。これが神の御国における紛争解決のスタンダードなのでしょうなあ。あなたの良い行いもその一部しか見れない人間に褒められるよりも、人が見ていなくてもすべてをご存じの永遠の神に褒められる方が圧倒的に良いのです。
イエスは宝は地上に蓄えず、天に蓄えよと教えます。つまりあなたの財産はこの世の一時的な幸せに使うのではなく、永遠を支配する神の御国のために使う方が賢い財テクというわけです。先ほども言ったように、この逆転の価値観は、この世においては全く理解されません。神を信じ、人生の視点を変えなければ理解できないのです。
ですので、永遠の価値観で生きる人たちは、この世で裕福である必要はないし、この世の幸せを追いかけることが自分を神から引き離すことだと理解しますから、行動パターンがこの世の標準から外れてきます。この世からの、変わり者だと言われ、理解されないし、敵対されることさえあります。それこそがイエスがあなたがたは世の塩です。と教える意味であり、その塩気をなくしてはいけない。私たちはこの世の標準に流されるのではなく、この世の価値観と対立する聖書の教え、永遠の神の御国の価値観に沿って生活しなくてはならないのです。
またイエスは、あなたがたは世の光だとも言っています。逆転の価値観で生きる私たちは隠れたり、恥じたりせずに堂々と真理を行い、それを見た人々が神を崇めるように。つまり、あいつは変わった奴だなあと人から評価されたりその価値観のために迫害を受けることは、クリスチャンとして正しく生きている証であり、素晴らしいことなのですな。
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第14話 旧約と新約で聖書
前回イエスの山上の垂訓にある逆転の価値観について話をしましたが、今回はこれらイエスに教えについてもう少し掘り下げてみます 多くの人は新約聖書に登場するイエス・キリストの救いや愛に関する素晴らしい教えに感動し、その教えに真実を見出してきました。 ヨハネの福音書1章にある通りイエス・キリストは神ですから、その教えが真実なのは当然と言えば当然。しかし、2千年前の教えが祭司や律法学者たちに厳しく管理されているイスラエルにおいて、田舎町出身の大工の若者がいきなり「悔い改めなさい、神の御国が近づいた。」と主張したところで、どれほど認められるでしょう。その教えに関しても、はたして説得力があるでしょうか? イエスだけではありません、パウロやヨハネ、ヤコブなど新約聖書の著者たちの教えは素晴らしいものですが、普通の人間であり、社会的地位も高くない教えや著書にどれほどの権威があるのでしょう。 「私の言葉は神の言葉だ」とか「私はイエス・キリストの生まれ変わりだ」などと主張する人が昔も今も世界中に存在します。イエス・キリストや新約聖書の著者たちの教えは、このような教える人たちの主張とどう違うのでしょう。イエス自身が驚くべき重大発言を山上の垂訓の中でしています。イエスはこのとてつもなく古い聖書の律法を廃棄するためではなく、逆にそれを一点一画もれることなく、すべて成就するために来たと、自らの使命を明言し、宗教指導者たちの教えている権威ある律法、つまり、旧約聖書は天地がなくなるまでにすべて成就すると宣言したのです。カルトの指導者たちは全く違う利己的な動機で活動しますから、正当な権威などありません。
山上の垂訓を見ても、イエスの教えが旧約聖書に忠実であることがはっきりわかります。
心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人たちのものだから。という教えは、詩篇37章11節
悲しむ者は幸いです。その人たちは慰められるから。はイザヤ書61章2節から、というようにイエスの教えは旧約聖書からの引用なのです。
イエスが最も大切な戒めと教えた、心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。
そして、あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。というのも、イエスが教えるずっと前からイスラエル人に与えられている戒めなのです。つまり、イエスは新しい教えをイスラエルに持ち込んだわけではないのです。むしろ、何千年も前の教えを本来の正しい解釈、そして、その有効性を教えたのですな。
律法を守ることのできないイスラエルに対し、律法の要求を満たし完全な義である、イエス・キリストの登場は、神と人類の新しい契約ですが、神のことばもその権威も変わることなく永遠だとイエスは教えているのです。
ですので、イエスの教えはイスラエル人の中で最も権威のあるものとして、古くから伝承されてきたものなのです。
しかし、イスラエルはその解釈や使い方を間違えるだけでなく、従わず、契約を破ってしまいました。
律法本来の意味を教え、奇跡によって、神性を証明し、自分たちの不正を糾弾するイエスは、当時の宗教指導者、律法学者、パリサイ派にとって、受け入れることのできない脅威だったのですな。イエスだけではありません。
なぜ、パウロは罪の報酬は死であると断言できるのか。それは、創世記2章17節を彼が知っているからです。
宗教改革の基礎となる信仰義認も創世記15章6節から、その考え方が導かれているのです。
新約聖書は旧約聖書がなければ存在できず、旧約聖書も新約聖書がなければ完結できません。
聖書とは旧約、新約がそろって本当の目的を達成するのです。罪を犯した人類への救世主が旧約で預言され、新約ですべてが成就し、人類救済が完了する。旧約、新約共にイエス・キリストのことを書いているのです。
もしもあなたが新しく聖書を買うなら、引照付きの聖書をお勧めします。これらの聖書を使えば、新約の教えが旧約のどこから引用されたのかすぐにわかります。新約聖書は読むけど旧約聖書はあんまり読まないという方は、引照付きの聖書を使えば、旧約聖書を読みたくなりますよ。